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バヤンウルギーという土地
バヤンウルギー県はモンゴル国の最西端に位置し、南は中国•新疆ウイグル自治区、北はロシア•アルタイ共和国と国境を接しています。西は、カザフスタンと近接しています。バヤンウルギー県の面積は、45.7万平方キロメートルです。県の標高は1301~4374mと場所によってかなり差がみられます。県の95.3%が標高1600m以上であり、全体的に非常に高いところに位置しています。県全体がアルタイ山脈の中にあると言えるほど、あちらこちらに万年雪や氷河に山頂を覆われた山々が見えます。
バヤンルギー県の年間平均降水量は102.6mmととても低く、非常に乾燥しています。しかしバヤンウルギー県は、空気が乾燥している一方で、沢山の水資源を有しているという不思議な環境にあります。これは、アルタイ山脈山中の環境と密接に関係しています。
まず、アルタイ山脈山中の年間平均降水量は400~500mmと、県の降水量と比べて非常に多い状況にあります。また、アルタイ山脈山中では、土地が乾燥していて硬い、山に木が非常に少ない、岩山が多いなど、様々な条件が重なって、降った雨や雪解け水はすぐに流れだしてしまいます。こうして流れ出した水が各地で川を作り、低いところには湖を作るのです。バヤンウルギーの土地では、非常に澄んだ美しい川、湖が見ることができます。
しかし、こうした湖の外側には、乾いた荒野が続いています。つまり、草は湖岸のわずかな部分に生えるのみで、草地は非常に限られた場所にしか出来ないということです。谷間のわずかに低くなっている部分だけがうっすらと緑になり、その周囲は荒野という景観がほとんどです。「ハンガイ(森林に近い、山間草原)地域みたいなゴビ(丈の低い草の生える乾燥草原)地域」というような自然環境にあります。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-pp37
《バヤンウルギーという土地:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
カザフへ行こう!-観光案内-
モンゴル国バヤンウルギーへ行くにはいくつかの方法があります。
- モンゴル国へ行って、国内線もしくは陸路で
- 中国新疆ウイグル自治区区都ウルムチからモンゴル国ホブド市へ飛行機で
- 中国新疆ウイグル自治区から陸路で
- カザフスタンから飛行機でバヤンウルギーへ
- ロシア連邦アルタイ共和国から陸路で
もっとも一般的なのは1番目のモンゴル国内移動でバヤンウルギーへ行くことでしょう。
夏期(7月~9月末)は国内線も多く飛んでいますから、チケットはとりやすいですが、9月に入ってからは欠航になったり、突然フライトスケジュールが変わったりすることがありますので、注意が必要です。
陸路でモンゴル国首都ウランバートルから行く場合、約1800kmほどを二泊三日、もしくは三泊四日かけて走ります。
そのうち舗装道路はわずかに400kmちょっとであとはダートになりますが、一般的な幹線道路であれば、比較的平坦で楽な道のりです。 時間があるなら、モンゴル横断がおもしろいでしょう。
タルボ湖
行くだけならどんな方法でもいけます。
ですが、モンゴル国における旅行はやはり現地に詳しいコーディネータがいるかいないかで旅の深みも広がりも違ってきます。
モンゴル国内にも様々な旅行社がありますが、バヤンウルギー旅行なら、Blue Wolf社をお勧めします。ここはカザフ人社長が1994年に設立した旅行会社です。バヤンウルギー地域の隅々まで知り尽くした旅行社です。ナショナルジオグラフィック社の取材旅行を請け負った実績も持ちます。
モンゴル人の旅行社はカザフ人、カザフ文化、バヤンウルギーの土地に関する情報を正確にもっておらず、結局、Blue Wolf社を頼ることが多いようです。
なにはともあれ、まずは、BlueWolf社のサイトをご覧ください。
さて、日本でバヤンウルギーでのツアー経験実績がある旅行社と言えば、風の旅行社でしょう。Blue Wolf社社長とつきあいが長く、現地とのつながりの強いNPO法人しゃがぁと共同で
冬のウルギーステイ -鷹匠宅ホームステイ-
夏のバヤンウルギーツアー
イヌワシ祭ツアー
などを手がけてきています。
バヤンウルギーへ行ってみたいと思ったなら、是非、一度ご相談ください。
ギャラリー
とりあえずダミーページだけど。
音楽文化
カザフ音楽とは
カザフ音楽は、カザフ人が奏でる音楽です。彼らが歌う音楽の内容は様々です。例えば、愛する人へ向けた歌や、お父さんとお母さん、弟、友人について歌ったもの。さらに、カザフ人の歴史を歌った歌や自分たちの(遊牧)生活についての曲、カザフスタンという国家を称える(ほめる)歌など。そういう歌がカザフ音楽にはたくさんあります。
カザフ音楽で必ず演奏されるのが、「ドンブラ」という楽器です。
ドンブラは、カザフ人の住んでいるほぼすべての地域で用いられています。そのため、ドンブラという楽器はカザフ人のシンボルとしても用いられています。例えば、このドンブラの像はバヤン・ウルギー県の県都ウルギー市に立っているものです。
ドンブラは、胴と棹に2本の弦が張ってある楽器です。この弦を手で弾きながら演奏します。この弦は、現在はナイロン弦が張られています。2本の弦ですが、2本の糸が張ってあるわけではありません。1本のナイロン弦を、胴の下部分で折り返して用いています。
昔はこの弦は家畜の腸を用いたガットだったようですが、楽器の大量生産に合わせて廃れてしまいました。また、胴と棹は、木でできています。主に使われるのは、松、クルミ、白樺といった遊牧地域で手に入れられる種類の木です。このような材料を使いながら、ドンブラの楽器職人が「手作り」でドンブラを作っていきます。
この楽器について少し詳しく説明してみますと、ドンブラには、2つの形(種類)があります。 1つは、5角形の形をしたドンブラ。
そして、まるい卵の形をしたドンブラです。
一般的に「ドンブラ」というと、後者の卵型の楽器のことを指します。これらの楽器の違いは何か。それは、卵型のドンブラはもともとカザフスタンの西で使われていたもので、一方ダイヤ型のは、カザフスタンの東で使われていました。ただ、社会主義時代に「卵型のドンブラを使って演奏しよう」という国の決定で、カザフ人の住むほとんどの地域で卵型のドンブラが使われるようになりました。このように、ドンブラはカザフ民族においてとても大切なものであるため、政治的に利用されるものでもあります。
カザフ音楽の演奏
以上、カザフ音楽、主にドンブラという民族楽器の概要について説明しました。次に、カザフ音楽がどのように演奏されるのかについて、Youtubeから動画を用いて説明していきたいと思います。
はじめに、普通のカザフ人(遊牧民?)が歌うカザフ音楽です。お母さんについて歌った曲です。カメラ真ん中にある楽器がドンブラです。
Nomadic Kazakh Plays Traditional Music
次の動画は、モンゴル国の西部に位置するバヤン・ウルギー県にある劇場の劇団員(ドンブラ演奏のプロ)が演奏するカザフ音楽です。この劇団員は、大体の場合公募で募集されます。その選考の際、劇団員に師事していたかということが重要な条件になります。現在、バヤン・ウルギー県の劇場では、30歳以下の劇団員が多く在籍しており、劇団員による海外(特に新疆ウイグル自治区とカザフスタン)への演奏旅行も行われています。
この動画の演奏者が演奏する曲は、馬が駆けるのを表現しています。タタタッ、タタタッ、タタタッと草原を駆ける馬がイメージされています。
TRADITIONAL KAZAKH MUSIC DOMBRA PLAYED IN BAYAN ULGII BY AYGAN BADEL
さて、今のようにプロの演奏家となると、その技術はとても高くなります。次は、カザフスタンで演奏された曲です。彼らは、複数のドンブラの合奏でを行っています。ちなみに、カザフスタンにはカザフ音楽学校があり、そこにはドンブラ演奏のプロを目指す音楽家が集っています。
The Kazakh Orchestra of Folk Instruments
以上の3曲を聞いていただきました。どの演奏も弾くという行為は共通していますが、弾き方、演奏法は多種多様ということができます。そこに、カザフ音楽、ドンブラ演奏の奥深さがあります。
カザフのポップ音楽
ここ10年くらいモンゴル国のカザフ人の間ではカザフスタンのポップ音楽が頻繁に聞かれています。特に、カザフスタンでも有名な「モザルト(Muzart)」や「カイラト・ヌルタス(Kairat Nurtas)」というアーティスト(グループ)がとても人気です。
モザルトを例にあげます。
彼らが歌うのはカザフ人やカザフスタンを称賛する曲が多いです。以下の曲は、「アルマティを想う」という曲で、アルマティというカザフスタン南東部の街の素晴らしさを歌ったものです。もともとロシア語で歌われていた曲を、カザフ語に歌詞を変えて歌っています。
こういう風に、最近の曲はほとんど欧米の曲と変わりありません。ただ、歌詞はもちろんカザフ語で、歌っている内容が愛国的であったり愛する人を歌ったりといろいろです。
最後に―カザフ人にとって音楽とは―
以上で、カザフ音楽をドンブラという楽器を中心として、youtubeの動画や写真を通して説明してきました。
では、カザフ人にとって音楽とは何なのでしょうか。
カザフ人にとっての音楽とは、人々の間をつなぐコミュニケーション道具だと私は考えています。それは例えば、楽しみや悲しみといった感情を表現したり、自分の意思を表明するものです。
私が経験したことを例に挙げます。2013年夏にモンゴル西部のバヤン・ウルギー県でフィールドワーク(現地調査)を行っていたとき、ある20歳代の劇団員ととても仲良くなりました。私がウランバートルに帰る直前、彼と会ったときに、私にだけ聞こえる声で一曲歌ってくれました。「光あれ」という曲で、別れのときに歌われる曲です。歌詞の一部を翻訳します。
「光あれ」
靴を履き、革の服を着たあなたは
私の元から旅立ってしまう。
もし元気であるならば、この地を去るがよい。
もし、元気でないならば、この地に残り土地の水を飲むがいい。
光よ、光よ、光あれ。
わが心の幸せな時を。
よいときは、光があらんことを。
悪いときでも、気にしてはいけないのだ。
こういう風に、彼は私に対する感情を、歌にして歌ってくれました。カザフ人の多くは、歌にのせて感情を表現することを行います。上の章でカザフの曲の内容は、多種多様であることを述べました。その中でも、人の感情をとても細かく表現する曲というのは、ジャンルに関係なく特に多いと私は感じます。
このような音楽を用いたコミュニケーションのあり方は、近年1人で音楽を楽しむという風潮の強い日本とは大きく異なっています。それは、カザフ人が音楽というものを、「周りの人々を巻き込みながら紡いでいくもの」という認識を持っているからです。「光あれ」を歌った劇団員は、私との関係性、そして私に対する感情を考えた上で、その曲を歌ったのだと思います。つまり、カザフ音楽というのは、「コミュニケーション」、言い換えれば、相手がいて成り立つ双方向の発話のあり方であるということです。
まだまだ、カザフ音楽は日本では馴染みの薄い音楽です。しかし、カザフ音楽やドンブラという民族楽器、更にカザフ・ポップスの奥深さは、日本人に馴染みが薄いからこそ、学ぶべきことがあるのではないかと思います。このようなカザフ音楽に少しでも興味を持っていただけたなら、嬉しいです。
写真&文責:八木風輝(滋賀県立大学大学院博士前期課程)
騎馬文化
カザフ人はイヌワシを使った毛皮猟を行うことで有名です。イヌワシ狩りの際には、馬を使って移動します。鷹匠は、馬で高い岩山の頂上からイヌワシを放ち、その後、岩山を駆け下りなければなりません。上下動の激しい状況下を、大きなイヌワシを腕に乗せて素早く移動し、また、飛んでくるイヌワシに対応した体裁きも要求されます。このため、カザフの人々は、繊細かつ大胆な乗馬技術を有しているのです。
カザフの人々の乗馬技術を、目の当たりにすることができるのが毎年秋にバヤンウルギー県で開催されるイヌワシフェスティバルです。ここでは、イヌワシフェスティバルで目にする事ができる乗馬競技をいくつかご紹介しましょう。
★ククパル
ヤギを馬上で奪い合う競技です。
額を叩かれて絶命したヤギが地面に横たわっています。競技は、競技者2名が馬上からヤギをすくい取るところからはじまります。馬を動かしながら、引っ張り合い、ヤギを奪い取るか、相手を馬から引きずり下ろしたら勝ちとなります。ヤギを馬上から持ち上げるだけでもかなりの腕力と乗馬技術を要します。
ヤギを抱えたら、カザフの男達の真剣勝負がはじまるのです....。
★ティエンイルゥ
ティエンイルゥとは、直訳すると”コインすくい”という意味です。
ルールは、まず2m程度の間隔で、地面にコインが置かれます。そして、馬の足を止めずに、馬上から体を乗り出して、コインをすくいあげます。次第にコインが置かれる間隔は狭まります。最多数コインをすくい上げた人が勝ちとなります。馬上から体を乗り出す際に、かなりのバランス感覚と馬を制しておく為の高度な乗馬技術が求められます。
★クズコアル
クズコアルとは、男女二人で組になり、女性は男性を鞭でたたきながら追い立て、男性はその女性からおもしろおかしな演出をしながら逃げる、というものです。馬で走り出す前に、男性が女性にキスをするのですが、それは求婚の合図ということで、それに対する女性の返事がOKであるならば男性を追い立てます。これは、実際にカザフの習慣であったそうです。かつては、逃げる男性と追う女性が走り回ることで、二人がこれから夫婦になることを周知させていたようです。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号),pp25-37
西村幹也(2009)「Photo reportイヌワシ祭-2009.9.19〜20-モンゴル国バヤンウルギー県」しゃがぁvol.47,pp22-25
《騎馬文化:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
イヌワシ狩り
イヌワシ狩りは、バヤンウルギーのカザフ人達の代表的な文化のひとつと言えるでしょう。事実、バヤンウルギーには多くの鷹匠がいます。
バヤンウルギーにおけるイヌワシの飼育と狩りについて、少しご紹介します。
鷹匠は、冬の間に目をつけたおいたイヌワシの巣から雛を盗み出します。このとき、メスを選ばねばなりません。狩りを積極的にするのはメスだからです。調教は夏期に行います。10月から3月の冬期には、キツネ、マヌルネコ、ウサギなどを対象に毛皮猟を行います。暖かい時期にたっぷり太らせた後、10月前から絞り込み、空腹状態にさせて狩りに使います。
狩りの際は、騎乗して、バルダックという肘置き杖でイヌワシをのせた腕を支えます。非常に鋭い爪から腕を保護するために、分厚い皮で出来たビヤライという手袋をはめています。この時、イヌワシにはトゥマガというマスクがはめられています。山頂についたらトゥマガをはずしてやって、獲物を探します。イヌワシが獲物にアタックするときの速度は時速160kmに及ぶと言われており、まさに一撃で仕留めます。
こうしたカザフのイヌワシ文化やイヌワシ狩りの様子を一目見ようと、近年海外から多くの観光客がバヤンウルギー県を訪れるようになっています。カザフのイヌワシ文化は、カザフの人々の誇りの象徴であり、また、外からやってくる多くの人々を魅了し続けています。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-pp37
西村幹也(2005)「ウルギー!カザフ!万年雪を仰ぎ暮らす人々を訪ねてその4」しゃがぁvol41, pp10-11
《イヌワシ狩り:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
装飾文化
★フェルトの絨毯「サルマック」
★手織り紐「テェルメ•バオ」
加藤九詐(1983)「カザフ族の遊牧生活」国立民族学博物館研究報告8(3), pp653-696
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号),pp25-37
(千葉大学大学院博士前期課程/ NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがぁ)
カザフ人の住居
一般的に、都市部•草原地域を問わず、カザフの人々は2つの住居を有しています。夏期(5〜9月頃)は、「ウイ」と呼ばれる移動式住居で生活します。冬期(10〜4月頃)は、固定家屋で生活します。
★ウイについて
「ウイ」は、モンゴル草原地域で見られる移動式住居「ゲル」と外見的にも構造的にも非常に良く似ています。ウイの形状はほぼ円錐形で、外部はフェルトや防水用の分厚い布で覆われています。床から天窓までの高さはおよそ4mあります。
モンゴルのゲルとカザフのウイの大きな違いとしては、ウイの中心には柱がないということ、ウイの天窓と壁を繋ぐ梁(屋根棒)が細長くて軽いということ、そしてその梁の下部が折れ曲がっていることなどが挙げられます。
梁の下部が折れ曲がっているため、梁と壁が垂直になり、縛って固定します。このため、壁と梁の曲がった部分でウイの天井は高くなり、モンゴルのゲルと比べて内部空間が非常に広く感じられるのです。
ベッドや洗面台など、生活に必要なものは全て揃っています。壁側に置かれます。
★冬期用固定家屋
冬期の最も寒さが厳しい頃には、気温は氷点下40℃から50℃にも達します。人々は、ウイから固定家屋へと生活の場を移します。なぜなら、バヤンウルギーは山岳地帯であるがゆえに、冬は雪が厚く降り積もってしまい、細い梁では雪の重さに耐えられないのです。冬の家は平屋構造になっていて、室内は防寒対策がしっかりなされています。
【参考】
西村幹也(2004)「ウルギー!カザフ!万年雪を仰ぎ暮らす人々を訪ねてその2」しゃがぁvol40, pp15
《カザフ人の住居:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
カザフの食生活
カザフの人々は、食事をする前に、必ず手をあわせ彼等の神に対して祈りを捧げます。
カザフの人々は、朝食と昼食はお茶とともに「バオルサック」と呼ばれる乾物やパンなどを食べて済ませます。もともと遊牧民たちにとって、朝昼は家畜の世話があるため非常に忙しく、ゆっくりと食事をする余裕はありません。そのため、朝食•昼食は簡単に済ませ、夕食をしっかりと取ります。
こちらは、「バオルサック」という食べ物を作っている様子です。小麦粉に酵母と塩を混ぜて、しっかりと練ったあと、しばし寝かせます。その後、細かく切りわけ、油で揚げます。揚げたては、甘くないドーナツのような感じで、外側はかりっと、中側はもちもちとしていて、非常に美味しいです。カザフの食卓には、欠かせない食べ物です。数日経つと固くなりますが、お茶などに浸けて柔らかくして食べます。若い女の子達が、テキパキとバオルサックを作っている姿は、とても逞しいです。
夕食は、肉(羊肉/山羊肉/馬肉/牛肉)料理や、クジュと呼ばれるお粥/うどんスープ、あるいは、お米などが中心となります。カザフ料理と言えば特に馬肉料理が有名で、「カズ」と呼ばれる保存肉はまさに絶品です。カズとは、馬の腸に、馬のあばら骨の肉をつめたものです。臭みはなく、塩がしっかりと利いていて、一度食べると病みつきになる人も。
こちらが、「カズ」の写真です。
カザフの料理では、たいてい調味料などをあまり使用せず、あっさりと塩で味付けをします。野菜は、じゃがいも、にんじん、キャベツなどが、スープに入れられたり炒められたりして食されます。
こちらは、「コールダック」と呼ばれる食べ物です。カズ(なければ羊肉など)、にんじん、じゃがいも、キャベツを炒めたものです。
特別なお客様が来た時には、「ベスバルマック」と呼ばれる料理がふるまわれます。
ベスバルマックという言葉は、直訳すると「5本の指」という意味です。肉を煮て、そのスープにじゃがいもやにんじんを入れ、ゆでて作ります。出来上がったら、一枚の大きなお皿に乗せて、それらを手で取って食べます。ちなみに、特に尊敬するお客様がいらっしゃったときには、羊の頭もいれます。
また、季節応じて、様々な食べ物が食されます。夏期には、牛/山羊/羊の乳で作られた豊富な種類の乳製品が食卓に並びます。
(乳製品に関しましては、本サイト内の管理人日記(blog)に、カザフの乳製品その1&その2というタイトルの記事を写真つきで掲載しています。あわせてご覧ください。)
また、屠殺が始まる秋頃には、内蔵料理をよく食べます。屠殺した家畜は、頭から尻尾に至るまで、余すところ無く全て食されます。(一部、食べない臓器もありますが。)彼等にとって、最高のごちそうなのです。
羊を屠殺した日に食べられる料理として、マイバオルが挙げられます。マイバオルとは、羊の肝臓を油とともにしっかりと炒めたものです。ジャガイモと一緒に炒める事もあります。
カザフの食生活を語る上で、欠かせないものがあります。それは、「茶(チャイ)」です。
カザフの人々は非常によくお茶を飲みます。お茶には、アクチャイ/カラチャイ/サルチャイと呼ばれるものがあります。一般的に、アクチャイが最もよく飲まれます。アクチャイは、沸騰したお湯に茶葉と塩と乳をいれたものです。それに乳をいれないものが、カラチャイになります。サルチャイは、アクチャイよりも茶葉の味が濃く、体にいいと言われています。
カザフの人々は、朝起きてまずお茶をのみ、仕事の合間にお茶を飲み、おしゃべりしながらお茶を飲み、TVを見ながらお茶を飲み、食事のときにもお茶を飲みます。とにかく、茶碗の上に手を置いて蓋をしない限りは、どんどんお茶を勧められ、入れられます。カザフのお茶は、飲みやすくてとても美味しいです。寒い日は、よくお茶を飲むことによって、体の芯から暖まります。
《カザフの食生活:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
カザフ人の衣装
カザフの民族衣装は、男性のものも女性のものも共通して、伝統的なカザフ文様がたくさん施されています。民族衣装は、普段は着用している人をあまり見ませんが、祭りなど特別な行事の際になると多くの人が着用している様子を見る事ができます。民族衣装の文様は、貼付けられているものがほとんどですが、かつては一つ一つ丁寧に刺繍が施されていたといわれています。
★男性の衣装について
チャパン全体、特に、襟の部分と袖の部分に文様が施されています。
銀の装飾がついたベルトを腰に巻いて締めています。
よく見られる帽子は、主に2種類。ひとつは、タキヤ(тақия)と呼ばれる平べったい帽子(下の男性が冠っているもの)。帽子全体に刺繍が施されています。最近では、ミシンで刺繍を施したものが多く見られるようになりました。
冬の男性の帽子には、きつねなどの毛皮が使用されます。
他にも、こんなに豊富な種類の衣装が見られます。
★女性の衣装について
女性も、男性と同様、日常生活においてはあまり民族衣装を着ることはありません。
既婚のカザフ女性は、頭にスカーフを巻いて生活しています。額にあたる部分をひと折りして着用できるくらいの大判のものを使用している人が多いです。模様や色も派手なものが多く目立ちます。町中でも田舎でも着用している様子が見られます。(スカーフに関する詳細は、blogへ。)
以下、他の女性の衣装です。民族衣装、および日常生活で着ているものなど。
★子どもの衣装
こちらは、子供服です。カザフのナーダム(祭り)やイヌワシフェスティバルのときに撮影したものです。
余談ですが、家畜たちにも綺麗な刺繍布や織り布がかけられることがあります。
こちらは、ドレスアップしたらくださん。
馬の背には、こういうものをかぶせるようです。(ウルギー市の博物館の展示より)
《カザフ人の衣装:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
最終更新日: 2013年9月13日
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モンゴルのカザフ人
ここでは、モンゴル国に居住しているカザフ人について、ご紹介します。
★人口/居住地/生業
モンゴル国には、2007年現在、約14万人のカザフ人が居住しています。カザフ人は、モンゴル国内の少数民族の割合のうち、第一位を占めています。
彼等は、主に首都ウランバートル市、ウランバートル近郊にあるナライハ市、ダルハン市、エルデネト市、モンゴル国西部に位置するホブド県、バヤンウルギー県などに居住しています。
中でも、バヤンウルギー県には、およそ9.3万人のカザフ人が暮らしています。バヤンウルギー県に居住しているカザフの人の多くは、季節移動型の牧畜を基本的な生業としています。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」 日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
★歴史 (バヤンウルギー県設立)
現在モンゴルに居住しているカザフの人々は、1840〜70年代にかけてアルタイ山脈の南麓から北麓へ移動してきた遊牧民でした。(詳細は「カザフとは ★歴史」を参照)
彼等は、1915年にロシア•中国•モンゴルの間で交わされたヒャーグト条約によって、モンゴル国の住民となりました。1940年に行政区画が再編され、モンゴル国最西端にバヤンウルギー県が設立されました。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」 日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
スヘー•バトトルガ(2008)「モンゴルのマイノリティにおける伝統復活とエスニシティ変動--西部地域のカザフとモンゴル系エスニック集団をめぐって」『共生の文化研究(1)』pp112-125
《モンゴルのカザフ人:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
カザフとは…
ここでは、本サイトでご紹介している「カザフ」という人々についてご説明します。
カザフとは、中央アジアに居住するトルコ系民族集団のひとつです。その民族構成は、大きく4つの集団にわけられます。具体的には、トルコ系集団Argyns,Khazars,Qarluqsj,Kipchaks)、トルコ-モンゴル系集団(Kiyat,Dughlat,Naimans,Nogais,Onggirat,Munghut,Jalayir,Alshyn)、プロト-トルコ系集団(Huns,Kankalis,Wusun)、イラン系集団(Sarmatians,Saka,Scythians)の4つから構成されています。
カザフという名称は、15〜16世紀頃から使用されるようになりました。1460年頃にチンギスハーンの長男ジョチの5男の子孫に当たる二人の王族、ジャニベクとケレイがウズベクの支配を離れ、独立政権を立てた際、彼等や彼等の配下のものたちが「カザク」と呼ばれるようになり、これが民族名称としてのカザフの起源とされています。カザフについては、カザフ語では「カザク」、中国語では「ハサク」と呼ばれたりもします。
カザフという名称の意味や起源に関しては、様々に言われています。例えば、13世紀のトルコ-アラビア語辞書には、カザフとは、「独立した」あるいは「自由な人々」を意味すると示されています。一方、カザフという言葉の起源は「放浪する」という意味のトルコ語であるという説も見られます。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
宇山智彦(2005)「カザフ[人]」『中央アジアを知る事典』pp117平凡社
カザフ民族は、大きく4つの集団から構成されています。(詳細は、「カザフとは ★民族」参照) それぞれの集団は、5〜13世紀の間、シベリアから黒海にかけての中央アジア地域において活動し、相互に抗争を繰り広げてきました。
1470年頃、キプチャク•ハン国の祖でありチンギスハーンの長男でもあるジョチの五男シバンの子孫に当たる王族、ジャニベクとケレイの二人によって、カザフ•ハン国が形成されました。カザフ•ハン国は、1500年代前半には現在のカザフスタンの領域のほとんどを支配するようになり、その後カザフ草原の西部、中部、東部がそれぞれ小ジュズ、中ジュズ、大ジュズと呼ばれる3つの部族連合体となりました。
1600年から1700年代初頭にかけては、ジュンガル帝国との抗争が続きます。1726年には対ジュンガル帝国戦で、小ジュズのアブルハイルハーンの元、大勝利を収めるなどしますが、ジュンガルとの長きに渡る抗争はカザフの人々に大打撃を与えました。ジュンガルの攻撃から身を守るために、小ジュズと中ジュズは1730年〜1740年代にかけてロシア帝国に帰属しました。(大ジュズは、後の1865年にロシア帝国に併合されました。)
1755年にはジュンガル帝国が滅亡しますが、この頃からカザフ草原地域一帯はロシア帝国の実質的な支配のもとに置かれるようになりました。こうした状況の中、ロシアによる支配を嫌ったアバクケレイは一族を引き連れ、カザフスタンの土地からアルタイ山脈の南麓(現在の中国•新疆ウイグル自治区)に移動しました。
しかし、1800年代になると、今度は移動した土地にて清朝帝国との衝突が起こりました。結局、1844年にカブリシュとジルクシャのふたりが500世帯ほどを引き連れて、アルタイ山脈の南麓から北麓(現在のモンゴル国•バヤンウルギー県)に移動することになりました。
このように、カザフの人々は周辺民族との度重なる抗争の中、移住を繰り返して中央アジアの各地に点在するようになりました。現在も、カザフの人々は、カザフスタンだけではなく、中国、ウズベキスタン、ロシア、モンゴル、トルクメニスタン、キルギルタン、アフガニスタン、トルコ、イランなどに居住しています。
【参考】
小松久男(1999)「ロシアと中央アジア」竺沙雅章(監)、間野英二(編)『アジアの歴史と文化〈8〉中央アジア史』pp184-188同朋社
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
宇山智彦(2005)「カザフ[人]」『中央アジアを知る事典』pp117平凡社
カザフ人の主な使用言語は、カザフ語です。カザフ語は、中央アジアで用いられる主要なテュルク語のひとつです。中でも、キプチャク語(北西語群)グループに分類されます。近い言語として、キルギス語やカラカルパク語などが挙げられます。
カザフ語の特徴としては、母音調和および接尾語の膠着性、主語+目的語+述語という語順、人称語尾の存在などが挙げられます。
カザフ語の方言には、北東方言、南部方言、西部方言があります。語彙や発音に若干の違いが見られるものの大きな差はないようです。居住している地域によっては、他の言語からの表現や語彙の影響を受けている様子が見られます。
カザフの人々の間では、近代に入るまで文字の使用がほとんど行われませんでした。このため、知識や情報は口頭で伝えられ、その結果口承文芸が高度に発達しました。現在では、カザフ語を表すために、改良キリル文字や改良アラビア文字が用いられています。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
坂井弘紀(2005)「カザフ語」『中央アジアを知る事典』pp117平凡社
カザフ人が信仰している宗教は、イスラム教(スンニ派)です。カザフの人々は、イスラム教を8世紀頃に受容したと言われています。一方で、カザフの人々の様子からは、それほど厳格なイスラム教徒という印象は受けません。それは、シャマニズムや自然崇拝の要素を多く残している事によると考えられます。近年では、モスクの建設やメッカ礼拝といった動きもさかんに見られるようになりました。
こちらの写真は、バヤンウルギー県のウルギー市で撮影したモスクです。
【参考】
西村幹也(2011)「モンゴルのカザフ人」日本とモンゴル第46巻第一号(123号)pp25-37
《カザフとは:文責》カザフ情報局ケステ管理人 廣田千恵子
管理人プロフィール
管理人氏名:
廣田 千恵子 (ヒロタ チエコ: 1988年3月7日生まれ: 神奈川県出身)
こんにちは!カザフ情報局「ケステ」へようこそ!
私は、とある事がきっかけで、浪人中にアジアの文化に興味を持つようになりました。
2007年から大学に入学して、モンゴル語を習い始めます。でも、そもそもモンゴルがどういうところか全く知らずに、なんとなくモンゴルを選択した自分は、モンゴル語を学んでても、ちっとも上達しませんでした。
そこで、2009年の夏から1年間モンゴル国へ語学留学します。留学中は、トゥブ県、ゴビ地域、フブスグル県タイガ、バヤンウルギー県など各地をまわり、たくさんの人達に出会いました。出会った人達の笑顔が温かくて、もっと彼等と話がしたくて、彼等が何を見て何を感じているのかもっと知りたいと思うようになりました。いつの間にか、モンゴルが大好きになっている自分がいたのです。
でも、暖かいのはモンゴルにいるモンゴル人だけではないのです。同じくモンゴルに居住しているカザフ人達もまた、とても温かくて優しい心を持った人達なのです。私はそのことを、カザフ人が作った装飾品を通じて感じました。
留学当初、私はバヤン•ウルギー県で一枚の大きな刺繍布を購入しました。その年の冬、その刺繍布を部屋に飾っていたのですが、なぜか、理由無く、気がつくとその布を眺めてしまっていたのです。まるで何かに惹き付けられているかのように。
一針一針丁寧に縫われた刺繍には、人を惹き付ける力があるように感じられます。私たちを惹き付けているのは、その刺繍をほどこした人々の「想い」ではないでしょうか。
私は、このサイトを通じて、カザフの人々の「想い」を伝えていきたいと思います。彼等の「想い」を伝える為に、彼等が何をみて、何を感じているのか、どんなところで生きて、どんな生活をしているのかも一緒に伝えていきたいと考えています。
”伝える”と言いましても、まだまだ勉強中の身でありまして、伝えられる事は少ないかもしれません。むしろ、ここで発信しながら、自分も知り、考え、学んでいきたいと思っています。一歩いっぽですが、カザフの魅力をお届けできるように、やってみようと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
2012.03.23(2014.03.13 一部訂正)
◎経歴
2007 東京外国語大学外国語学部モンゴル語科入学
2009〜2010 モンゴル国立大学留学
2011 東京外国語大学外国語学部モンゴル語科卒業
2011 千葉大学大学院人文社会科学研究科公共研究専攻博士前期課程入学
2012.04〜2014.02 モンゴル国立大学留学およびバヤンウルギー県へのフィールド調査
(財団法人平和中島財団平成24年度日本人奨学生)
2014.04〜 千葉大学大学院博士前期課程復学
専攻は文化人類学。
研究テーマは、「モンゴル国カザフ人の装飾文化とその変容」。
NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがぁスタッフ。
しゃがぁについてはこちら
◎発表/論文/活動歴
2011.12「カザフ人の刺繍世界-バヤンウルギーの地で想いを紡ぐ-」しゃがぁvol49号 p16-21
2013.02 「オヤットを考えるーカザフ人の日常生活に見られる行動規範ー」@第24回モンゴル研究会(千葉大学)
2013.12.07【発表】「モンゴル国西部のカザフ人ー鮮やかな装飾に囲まれた日常生活ー」@第27回雲南懇話会
→関連資料 http://www.yunnan-k.jp/yunnan-k/27-20131207/731-20131207-27-03-hirota.html
2013【論文】「カザフの伝統的手芸技法ーモンゴル国バヤン•ウルギー県の事例からー」千葉大学ユーラシア言語文化論集15号
→フルテキストへのアクセス http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00117440
2014.04.18~20 【展示】「カザフ刺繍のお店 ケステ屋」春の中央アジア文化祭2014 @西東京: もくれんげ
2014.04.20【発表】「カザフ女性の手仕事ーつくり、つたえる、母心ー」@西東京: もくれんげ
2014.04.27【展示解説】「カザフの刺繍壁掛けトゥス•キーズ展」@北海道立北方民族博物館
2014.04.27【講習】「カザフ刺繍ワークショップ」@北海道立北方民族博物館